法律を守るものは、自らの身を助く

 

53aabea56e72da870f228a3e097f7079_s「お前、サラ金か!」

 

放たれたその言葉の向こうから、軽蔑交じりの鋭い視線が飛んでくる。

延滞債務者の家の玄関先。債権回収に訪れた時、幾度となく投げられたその言葉と冷たい眼差し。本人が不在だからと応対に出てきた親族や身内からである。

 
 

夕飯時。セールスマン然とした男が個人名を名乗り、「〇〇さんは帰ってらっしゃいますか?」と尋ねてくる。用向きは何なのか、目的は何なのか。そもそもこの男は自分の家族とどういう関係なのか。突然やってきた謎の訪問者に戸惑いながらも、考えをめぐり巡らせ、ようやく自分が応対している相手が、「金貸し」であることに帰結する。

 

「借金取り!」「サラ金!」「金貸し!」

 

まるで、呪詛のごとく口をついて出てくる言葉。

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こちらの素性を当てられているので否定はできない。かといって「御察しの通り、こちとら金貸しで御座います!」と肯定もできない。

先に素性を明かされてしまったとはいえ、安易に社名を名乗ることは禁忌なのである。加えて、いちいち反応していては、こちらの心理状態が持たない。素性を明かせないもどかしさを残しながら、『連絡を寄越してほしい』という内容をしたためた文書を手渡し、その場をあとにする。

 
 

これは、昔、消費者金融に勤めていた時の話である。

busi_042消費者金融とは、消費者信用における小口融資を業とする貸金業。俗に言う「サラ金」業者のこと。某流通系を経て、外資系企業の傘下に入り、最後は、某外資系銀行グループに属していた。バックに銀行という存在があり、ほぼ0に近い調達コストで資金を融通し、30%近い金利で貸付業務を行っていた。現在、貸金業規制法は改正されて上限金利は大幅に規制されているが、私が在職していた当時は、グレーゾーン金利が健在だった時代。過払い金問題が表面化するのは、もう少し先の話だ。

 
 

貸金業者において男性社員は、日々の貸付業務の他に、支店が管轄する債務者の債権回収業務も担当する。閉店後から架電による督促がはじまり、貸金業規制法に定められた督促可能時間まで、回収業務は行われる。電話による督促であれ、訪問による回収であれ、債務者本人と直接話せる機会は決して多くない。応対の相手は、同居する家族や親族、あるいは身内がほとんどである。

 
 

回収業務の鉄則として、まず、こちらから債権者であることを名乗ることはしない。返済の遅れている債務者であっても、借り入れに関する事実や、プライバシーを本人以外の人間に対してあからさまにすることは、法律で禁止されているからである。法に抵触しないためにも、慎重な配慮と適切な対応が求められる仕事なのだ。

 
 

慎重に慎重を重ねていても、クレームは発生する。揚げ足を取ろうとする輩の存在だ。

「返済義務のない家族に代位弁済を迫った」という事実無根のクレームや、威迫・脅迫まがいのクレーム。もはやクレームと呼べるしろものではないが、たとえ法に抵触している事実がなくても、彼らは既成の事実として平然と自己中心的な主張をしてくる。対抗する手段はただ一つ。自らの仕事に誇りを持つこと。そのためには、法に抵触していないという、絶対的な自信と遵法精神の裏付けが必要なのだ。

法律の遵守とは、債務者本人の私生活の平穏の保護だけが目的ではない。時には、法律が身を守ってくれることもあるからだ。

 
 

つまり、貸金業を営む企業も、そこで職務に従事する従業員も、全てが法律というルールに縛られながら“業”を営んでいる。いたって健全で、とても分かりやすい世界なのである。

なのに、なぜ、金貸しは悪役にされ、忌み嫌われる存在なのか。

 
 

金貸しは悪という業界イメージ。禁止と容認の歴史。

 

「お前、顔つきが変わったぞ」

 

久しぶりに会った学生時代の先輩に、消費者金融で働いているという話をしたとき、そんな事を言われた事がある。自分では意識した事はなかったが、そんなにも人相が変わっているのか、と首をかしげたことがある。そして、こうも言われた。

「そんな仕事、いつまでもするな!」と。

ずいぶんな言われようだった。金貸しも立派な仕事じゃないか。
心のなかでは思っていても、やはり口にだすことはできなかった。

 
 

高金利によって利ざやを稼ぐ。容赦のない債権回収。

日本最古のビジネスと言われる金貸しも、その歴史には悪のイメージしかない。業界内の一企業が起こした不祥事は、たちまちのうちに業界内全ての企業イメージを打ち砕く。名の知れた業界大手の上位金融会社ならいざ知らず、選外の業者は十把一絡げで“悪”のレッテルを貼られてしまう。

 
 

世界に目を向けてみても然り。ユダヤ教・キリスト教・イスラム教の共通経典である「旧約聖書」の中には、高利貸しを断罪する言葉や、金利を禁止した叙述がある。

例えば、

 

“利息をつけて金を貸し、高利を取るならば、彼は生きることができようか。彼は生きることができない。彼はこれらの忌み嫌うべきことをしたのだから。彼は死ぬ。その死の責任は彼にある”(エゼキエル書18章13)

 
 

旧約聖書の三大預言書の一つ「エゼキエル書」の中の一節。

“彼は死ぬ”のだ。金貸しは、命がいくらあっても足りないのである。

実際、古代の宗教の世界では金貸しは罪深き行為とされ、高利貸しは処罰の対象になっていたという。

宗教上で禁忌とされながらも、ヨーロッパ諸国では中世の時代から「金貸し」というビジネスが繁栄している。それは、現在も尚、最古のビジネスモデルとして存在している。

金貸しは罪悪、としつつも、経済活動や社会の発展に欠かせない存在として認めざるを得なかったからだ。人々の欲望を抑制する一方で、時代の要請にともなって宗教上の解釈に折り合いをつけてきた。それが、金貸しの「禁止と容認」の歴史である。

 
 

今は収束しつつある「グレーゾーン金利問題」も、決して高利で貸した業者自身が悪い訳ではない。時代の変遷とともに変わる法規制の下、時代に沿うように貸金業務を展開してきた業者にとっては、「規制と緩和」によって生み出された「歪み」に飲み込まれただけなのだ。

 
 

しょせんは「金貸し」のただの強弁に過ぎない、と言われるかも知れない。

もしかしたら、私自身の、ただのひとりよがりなのかもしれない。

それとも、私の、ただの妄言かもしれない。

事実、「金貸しの世界」から足を洗い、業界の人でなくなり、今現在の仕事を始めた途端、私のスタンスは変わったのだから。

 

“お金は借りないほうがいい!”と。

 

立場が変われば、主張も変わる。

とは言ってみたものの、無借金というポリシーを貫くあまり、私は、入所当時の研修でやった仮想空間上の経営戦略ゲームで、大きな痛手を被ることになるのだった。

 

(続)

 

次回予告 仮想経済空間での痛恨の打撃。経営戦略MGゲームで堕ちた男!

 
 

監査業務第1課 加藤 智弘

  
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