オペレーション部門の中澤です。

先日広島の平和記念公園へ行ってきました。

事務所の慰安旅行でも訪れた事があったのですが、平和資料記念館はタイムスケジュールの都合上、十分に見学ができなかったので「もう一度来る!」と心に決めていました。

 

平和記念公園へはJR広島駅から路面電車で約20分。「原爆ドーム前」で下車します。被爆当時のままの姿をしたドームを目の前にすると気持ちが引き締まります。

 

爆発後の地表温度は3,000度から4,000度もあったと言われます。爆心地に居た人たちは、骨だけを残して熱風で消えてしまいました。かろうじて生き残っていた人たちは、熱線で体の肉が焼かれ苦しみながら数日の内に亡くなっていきました。また死地を乗り越えても、火傷がケロイド状になり長く苦しむ事になりました。

 

「げんしばくだんがおちると

ひるがよるになって

ひとはおばけになる」

 

当時小学3年生だった坂本はつみさんの詩です。この詩に原爆の恐怖が集約されていると思います。

 

原爆ドームは「旧広島県産業奨励館」で写真左下(模型)の立派な建物でした。

 

 

 

 

 

原子爆弾は地上に着地して爆発したのではなく、原爆ドームのほぼ直上600メートルの空中で爆発しました。その1個の爆弾によって20万を超える人々の生命が失われ、半径約2キロメートルに及ぶ市街地が廃墟と化しました。原爆ドームはこの悲痛な事実を後世に伝え、人類の戒めとするため、国の内外の平和を願う多数の人々の寄付によって補強工事を施し、これを永久に保存することとなりました。

 

◆広島平和記念資料館へ

当日は土曜日という事もあり、観光客で混雑をしていました。この観光客の約8割が外国からの旅行客のようでとても驚きました。展示品も熱心に見学をされていて、「このまま平和の大切さを拡散していって欲しい!」と切に願いました。

ロシアのウクライナ侵攻から1年以上が経ち、いまだに終戦の兆しがみえません。もしかするとロシアが「核ミサイル」を配備しているのでは?というニュースもありました。まだ確証はないものの核保有国です。怖い話です。ここに来て、人間が人間でなくなる原子爆弾の恐ろしさ、戦争の不毛さを学んでほしいと思います。

 

<被爆体験伝承者のお話>

資料館に入ってすぐに「被爆体験伝承者」の方のお話を聞きました。被爆者の体験談を代弁される方なのですが、ご本人も生後24日で被爆されたとの事でした。ある男性の体験談です。伝承者の方がその方を取材した時、「私はね、殺人者なんですよ」と衝撃的な事を言われたそうです。それは、被爆した人達に水を与えてしまったからなのだと言います。当時「水、水」と悶え苦しむ人達にお水をあげてはいけなかったそうです。その理由は「死ぬ」からです。しかし、その方はいたたまれなく水を求める人達に一含みの水をあげたのだと思います。それから寿命を全うするまで罪悪感にさいなまれたそうです。この方自身80歳になるまでご自分の被爆体験は語られなかったそうです。この方だけでなく広島で被爆し、生き残った人達皆、死んでしまった人達への申し訳なさ、罪悪感でずっと苦しんでいるのだそうです。

 

<展示室へ>

そこには、焼けただれた衣服、食べられる事のなかったお弁当箱、故人が大切にしていた物等が遺族から寄贈され展示されています。被爆犠牲者の中には「建物疎開作業」に動員されていた中学生以上の子供達が多くいました。「建物疎開」とは空襲による火災の延焼を防ぐ為に、建物を間引いて取り壊す作業の事です。6000人前後の多くの子供たちが犠牲になったとの事です。広島平和記念資料館のHP「平和データベース」を検索してもらうと遺品と当時の状況を知る事ができます。

 

「建物疎開作業現場で被爆し、死亡した中学1年生の少年の持ち物。8月9日早朝、母親が、弁当箱をおなかの下に抱きかかえるような姿の遺体を見つけました。食べることのできなかったお弁当は真っ黒に焦げていました。」

 

おなかの下に抱きかかえて死守しようとしたんだろうな、そしてお昼ご飯の時間を何より楽しみにしていたんだろうなと思うと不憫で涙が出そうになります。

 

 

「国民学校児童の遺品です。

当時9歳で指圧病院2階の待合室で被爆しました。熱線の直射を受け顔と両手足に大やけどを負い8月27日に亡くなりました。」

 

小さな子供達にも容赦なく降り注いだ熱線。どんなに痛くて苦しかっただろうと想像に堪えません。

今回はここまでにさせていただきます。

 

最後に広島平和記念資料館の平和データベースより

市立中学校1年生の三上直樹さん(当時13歳)は、朝礼のため集まっていた校庭で被爆した。重傷を負いながらも己斐中町の自宅まで帰り着き、母親に状況を語って4時間後に死亡した。

母・三上五月さんの手記から
お昼前だったと思います。「お母ちゃん」と、ありたけの力を振り絞ったような声で、直樹が帰ってきました。パンツ1枚の体になり、肩から背から血が流れています。髪の毛はみんな焼け、顔の皮膚はすっかり焼けただれて鼻の先に真っ黒な固まりになっています。手の皮はずるりと焼けむけて爪のところで止まって、五寸くらいも垂れ下がり、二度とは見られぬ姿に変わり果てていました。高須の救護所へ連れて行き、手当てを受けましたが、既に死は目前に迫っていました。「何か食べたい」という直樹に、大きなトマトを食べさせたとき、口からどくどくと出てきたトマトより紅いあの血の色は、今でも私の目の奥に焼き付いています。苦しい息遣いの中で、早く家に帰りたいという言葉を繰り返し、だんだん吐くばかりの息の下で「お母ちゃん、泣いてはいけん、これだけ大きな戦争で、学徒の僕たちが生きておられることのないのは覚悟しとったよ…。お母ちゃんは人のためになる事を…」と言い切らぬうちに息を引きとりました。大八車に乗せて自宅へ連れ帰り、ガラスだらけの上に床を作って寝かせました。空襲を恐れて、線香もないお通夜をすませましたものの、次の朝は、寂しさというか、たとえようもないあの気持ちは、今も忘れることができません。8日の昼前まで一緒に寝ました。裏山で遺体を荼毘に付し、翌朝お骨を丁寧に拾いました。この時も涙すら出ませんでした。しかし、お骨箱を胸に抱いて持ち帰り、白布に包んで茶だんすの上に乗せたとき、どっと涙があふれてまいりました。体中の水分がみんな涙に変わったのかと思うほど、私はいつまでも泣き続けました。

 

これを読んで心が動かない人がいるでしょうか?

5月19日から広島でG7が開催されます。7カ国以外にインドの首相も招待をしているとの事なのでこのサミットに核保有国が4カ国(アメリカ・イギリス・フランス・インド)参加する事になります。広島の現実に目を背ける事なく世界の平和の為に原爆の脅威について是非話し合って欲しいと思います。

 

  
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