2014-09-16 08.34.12 「自力」ではなく「他力で」という風に書くと、他人のふんどしで相撲をとっているような想像をしてしまいがちです。色々と辞典で「他力本願」という言葉を調べてみても、”自分の力でなく、他人の力によって望みをかなえようとすること”とか、”自分で努力しないで、もっぱら他人の力を当てにすること”とか、何か人まかせで無責任のような、自分では何もしない横着者のようなイメージです。

この「他力本願」という言葉は、経営に関する読み物で経営哲学を語っている際によく出てきます。それは、「他力」での経営はダメで、「自力」の経営こそが大事なのです、というわけです。一般的な会話でも、”何か面白いことないかな~???”なんて言うと、”そんな他力本願な!自力で面白いことやれば!”っていう感じですね。
最近、読んだ本で五木寛之先生の小説「親鸞」で初めて「他力本願」の意味を知りました。この小説は浄土真宗の親鸞聖人のshinran物語です。この物語の中に「他力本願」の本当の意味が出てきます。本来「他力本願」の意味と言うのは、浄土真宗の宗祖である親鸞聖人によって広められた仏教語で、「他力」は「自力」の反意語で、ここでは「阿弥陀如来仏の力」を意味するものとなります。「本願」は阿弥陀如来が善悪を問わず、生命のある全ての存在を極楽浄土に往生させようとする誓願という事です。

なるほど!とはいうものの、小説「親鸞」の会話の中にもよく出てきた質問に、”多くの人を殺し、傍若無人に生きてきた人間でも、極楽浄土に往生できるのか?”(こういう風に書いてあったかどうかは???)親鸞の答えは、”念仏を唱えれば往生できる”なるほど!阿弥陀如来仏はやはり大きい仏様なのだ!少し解せないところではありますが、とりあえず納得。プロセスはどうであれ、最終的には念仏を唱えるという事で、全て上手く行くという事なのか?まあ、いいか・・・。小説はとても考えさせられることが沢山あり、一気に完読。その流れで、また五木寛之さんの「自力と他力」で納得です。

2014-09-16 18.37.14

「自力」とは自分の力、行い、考え方等々、自分でできる事であり、「他力」と言うのは他人の力ではなく、仏の力という事になります。小説でいうプロセスはどうであれ、最終的に念仏だけ唱えていれば極楽浄土に往生できるとあるのですが、やはり「他力」が受けれる「自力」が必要です。「自力と他力」の本に出てくる五木さんの話で、”他力の風が吹かなければ、ヨットは動かない”にあるように、エンジンのついてないヨットは、他力という風が吹かないと動きませんが、ただひたすら風だけを当てにして、帆をおろして居眠りをしているだけでは駄目で、いつかは風が吹くと信じて、自力でできる努力があってこそ、他力が享受できるというものですね。

何事もこの「自力」あっての「他力」。「他力」だけで上手く良い事があるのか?宝くじに当たった~!といっても、「自力で」宝くじを買う、又は貰う又は拾う、売上がなぜか上がった~!といっても、上がる何かの土壌をそれまでに作ってきていたから・・・、色々と考えてみるのですが、やはり「自力」行為が無いと「他力jyuuen本願」が働きません。どなたか、「他力本願」だけで上手くいく何かがあったら教えてください。それまで自分自身の念仏を極める努力をしておきます・・・。あ!これも「自力」だ(^_^;

結論は、自分でできる事はとことんやり、果報は寝て待て。最後は神頼み。やはり最後は「他力本願」で決済ですね。

やこやこ

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