多くのボランティアたちが、それこそ多種多様な関わり方をしていた。
個人、団体、県外、県内、長期、短期などの形の違い。
役に立った者、立たなかった者、ただ邪魔だった者。
いろんな人たちがテント村に来ては、帰って行った。

「炊き出し部隊」と呼ばれるオバさん達がいた。
大阪の料理教室の生徒さん方だった。
毎週決まった日に、来れる人が来て、台所でおかずなどを調理してくれた。
中には、片道2時間以上かけて来る人もいて、大変な苦労をされたことだと思う。
救援物資や、自分の持ってきた材料、ありあわせのものを見つけては、「今日はきんぴらでいこか」と決めて、見事な段取りと手さばきで、何品かを作り上げるのだった。

普段から、身障者のためのボランティアをしていた人も、時間を見つけては手伝いにきていた。
個人的に手の空いた日に、何かないかと訪ねてくれた。
こういう人たちは、普段から他人のために働いて、自分のことはどうしてるんだろう?と不思議に思った。

まだ高校生の子も、週末になると手伝ってくれていた。
受験もあるが、息抜きのつもりらしい。
自宅も少なからず被災していたが、人の役に立つことが嬉しく、ボランティアを楽しんでいるようだった。

「なんでも差し入れるから、足りないモノを教えてくれ」という慈善団体があった。
人的支援ではなく、物的支援に特化していて、「コレコレが欲しい」というと、次の週にはどさっと持ってくる感じだった。
ある日「でかい斧が欲しい」とお願いしたら「うーん」と言って帰って、次の日持ってきてくれた。
この斧は薪割に重宝した。

宗教団体も多かった。
「にんじんが無いんです」と言ったら、すぐに良質なものを大量に送ってくれた団体がいた。
この団体は、あらゆるお願いに、迅速に対応してくれた。
瓦礫の街中を、袈裟を着た怪しい数十人の団体が、たいこを叩きながら念仏して歩いていた。
地元の人たちは怖がった。
この手の例にもれず、炊き出しのついでに被災者を捕まえて勧誘する団体もあった。
こういう手合いには厳しくし、勧誘行為をした団体はすぐに帰ってもらって、出入り禁止にした。
「今回のような天災は、人間の力じゃどうしようもないです」
彼らは言う。だから神の力にすがりなさいと。彼らの神に。
多くの団体は、自分たちの主張は二の次にして活動していたが、こういう例もあったのだ。

他県からの商工会や青年団の人たち。
岡山や徳島など、それほど近くない県の人たちも、定期的に西宮、芦屋、神戸の避難所をまわっていた。

自営で飲食店を経営してる人が、店を休んで、材料からすべて持ってきて炊き出しをしてくれた。
九州のラーメン屋もいたし、新潟から餃子屋さんというのもいた。

散髪サービスをしてくれた美容師さんの団体。
個人的に避難所をまわるマッサージ師。
自分の専門を、無償で他人のために生かすということが、大きな満足なったそうである。

抹茶の炊き出し、というのもあった。
苦い緑色の液体をがちゃがちゃとかきまわして飲んで「けっこうなお点前で」というアレである。
テーブルに赤い毛氈を敷いて、傘など立てて雰囲気を出すのだが、誰も来ない。飲みたくないからだ。
こうなると、被災者の中で気を使う人もいて、善意を無駄にしては悪いということになる。その結果、一人で何杯も飲んでいた人もいた。

ある日、田中康夫がテント村にやってきた。
あの「なんとなくクリスタル」とか書いた人で、ワイドショーなんかの司会もしている有名人である。
「ボランティアをしている女の子たちは、手が荒れてるだろう」とかで、化粧水を差し入れてくれた。「ボランティアのボランティア」だそうだ。だからどうした、とちょっと思った。
避難所のオバさん達は、一緒に写真を撮ったりと、おおはしゃぎであった。
ちなみに、化粧水はラコームとかいう高級な奴で、1本5000円もする。これを女の子たちひとりひとりに渡していた。キャバクラのおやじである。

――そういった多種のボランティアも、4月にはいり少なくなっていく。
新学期がはじまる学生ボランティアは、3月いっぱいで撤退した。
炊き出しをする台所は、4月からはテント村内のみの食事を提供することになった。
公園にある風呂場の管理を担当していたボランティアたちも撤退する。そこで、今後は誰が風呂を管理するのか、少しだけ揉めた。
テント村に風呂がついたのは、2月の中旬。男湯と女湯の2つ、それぞれプレハブの仮設風呂である。5人づつまで入れる。灯油を使ったボイラーでお湯を沸かす。
テント村に住む人たちだけでなく、自宅避難している人たちにも開放していた。
その頃はまだ、住宅用のガスも水道も復旧していなかった。多いときには、昼から夜中まで、1日200人もの人が風呂を利用していた。
やがて水道・ガスが復旧し、仮設住宅に入る人が増えてくると、この風呂を利用する人はどんどん減っていった。そして、この頃になると、風呂の利用について考えることも多くなる。
家で風呂を沸かすと、水とガス代がかかる。テント村の風呂なら、広いしタダだし、なにより自分で掃除しなくていい。――それだけの考えで、わざわざ入りに来る人達が問題になった。
自分の家で風呂にはいる、それぐらいの財力や健康はあるはずなのに。
とにかく、中と外に関わらず、風呂を利用する人達は誰でも、当番で掃除を担当するのが、一番自然な形だろうということになった。灯油や火の管理は、常駐のボランティアが引き受ける。
ところが、管理体制を変えるにあたって、この風呂の責任者って、一体誰なんだろう?という問題がでてきた。「この風呂、誰のもの?」なのである。
避難所に設置してあるということは、公共的な性格を持つわけだから、それを現場の都合で勝手にいじくってはまずいだろう、ということだ。しかし、はじめのうち風呂を管理していたボランティア達は全員ひきあげていて、どういう経緯で風呂がついたのか、わからなくなってしまっていた。結局最後は、まあ市役所に言えばいいか、みたいな結論になった。
テント村の人達には、ここしか利用できる風呂はないのだから、必然的に掃除を負担してもらうことになる。問題は、外から来る人達にどうしてもらうか、であった。やはり、使う以上は、同じように負担してもらわなければいけない。
そこで、外向けに、
「ボランティアがいなくなります。これからはお風呂の掃除をしてもらうことになります」
とキャンペーンをした。
すると、まだ20人以上いたはずの利用者は、1人になってしまった。
そんなに掃除いやなの?と、ちょっと呆れた。
さらに、夜にこっそりと、忍び込むようにはいっていく人もいた。これが女湯の場合、手も足も出ない。
残った1人はおじいちゃんで、「自分も使ってるんやから、掃除くらい、当たり前や」と言って引き受けてくれた。やがて仮設住宅が当選し、このおじいちゃんも来なくなった。
最後の日、「おおきに、おおきに」と何度も頭を下げて、テント村をあとにした。

自発的(ボランタリー)な行為でも、ある期間携わっていると、少しずつ考えも変わっていく。心持というべきか。
初めは「人の役に立てるのがうれしい」、次に「やらなくちゃダメだ」になる。
だんだん「やってあげてるんだから、感謝しろ」になり、やがて「なんで自分でやらないんだ、甘えんな」となる。

短期間であっても、現場のために何かしたいと考える人。自分の空いた時間を、他人のために役立てようという気持ちを持っている人。こういうタイプは、継続的なボランティア活動ができる人だと思う。ボランティアという行為を、生活スタイルのひとつの選択肢だと考えている。休日はいつも人のため、というのでもない。たまには、ハンデを負った人のために何かしようと、自然に行動を起こす。彼らは「自分はこれくらいしかできないが、役に立っているならうれしい」と謙虚に語る。

妙な使命感に燃える人もいる。なぜか自分の正義を疑わない人である。彼らの言い分は「かわいそうな人がいるんだから、助けてあげなきゃ」である。で、たまに当事者の前でも、この台詞を吐く。大きなお世話であるが、この場合、当事者よりも彼らのほうが強いという力関係なので、当事者のほうはいつも、みじめな役を演じなければいけない。これはすごいプレッシャーであろう。

自分のやることに対して、見返がないといけない、という人もいる。お金がもらえないなら、せめて目立って、お山の大将ぐらいにはなりたいもんね。というわけで、妙に仕切りたがる奴は、どこにでもいるもんである。人前でだけ、はりきる。自分のしたことをひけらかす。よくしゃべり、「オレってこんなにやってんのにさあ、わかってもらえないんだよね」と清々しく苦笑したりする。わかってないのは自分である。

今回の震災では、マスコミの取材も多かったので、その影響で増長してしまう若者も見受けられた。テレビなんかくると、もう大はしゃぎで、田舎のヤンキーみたいだ。ディレクターの名刺をたくさん集めて、悦に入っているのもいた。「ニュースステーションの取材来ないかな」と言っていた。全国ネットで映りたいらしい。それなら犯罪でもすればいい。
いつの間にかナンパが目的になってしまったヤツもいる。「やっぱ、ボランティアです、てカッコいいじゃないすか。オレ、あの娘狙ってるんすよ」まあ、憎めない奴もいた。

ボランティアの末期症状のひとつが、現場に対して「甘えんな」という感情を持つことだと思う。
現場が自立することが目標なのだから、これは当然のことなのだが、感情的になるとだめだ。
「全部、自分でやればいいじゃないか」ということで、寝たきりの人には「立って歩けよ」目の見えない人に「本くらい、自分で読めよな」というのに等しい。なんのために、自分が現場に携わっているのか、わからなくなる。そして、現場に一度反感を持ってしまった人は、なかなか戻ってくるのが難しい。
逆に、この症状を克服し、淡々と手助けができるようになったボランティアは強い。ひとつの壁であろう。
「助けが必要」と「自分でやれ」とは正反対のことだ。しかし、どちらもなくてはならない、ボランティアとしての要件でもある。この二律背反を、どう昇華できるか、ひとつの分かれ目である。というより、この矛盾をかかえこみながらも、なお「人のため」と進んでいくことが、人の優しさの本質であるような気がする。

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