テント村は避難所であるから、公共の場である。
当然、外からも多くの人が入ってくる。
自分の家が壊れずに済んだ被災者や、炊き出しその他のボランティア、酔っ払いもいれば、浮浪者も入ってきた。
当時、大阪あたりから流れてきた人が多くいたという。炊き出しをしているので、タダでご飯が食べられるからだ。

テント村の内と外、それぞれ立場の違う被災者同士でのイザコザもあった。

他の避難所とくらべて、テント村は救援物資が充実していたと聞いた。
マスコミに何度か取り上げられて、有名になっていたせいでもある。しかし、はやいうちから物資を公平に分配するために管理をはじめた、ということもある。
同じ被災者からでも、個人的な厚意で日用雑貨などを買って届けてくれたり、つぶれてしまった自分の家から掘り出したりしたものを、使ってくれと持ってきてくれたりと、助け合っていた。
また、薬品なども大量に送られてきていたので、一時期インフルエンザが流行した時には、かなり重宝した。
ちなみに当時、あの江川紹子さんがインフルエンザにかかって、テント内で寝込んでいた。

それらの物資は村の入り口に積まれ、ボランティアが管理することになっていた。
住民でそれをすると、段ボールを動かすなどの力仕事で負担も大きいし、親しい人同士で分けてしまうことも考える。もちろん、そんなことは無いにしても、疑いをもってしまうのも人間である。だからこの場合は第三者が管理するのがよい方法だといえる。
それでも、「ボランティアと仲良くすれば、いいモノがもらえる」みたいな会話を被災者がしているのを聞いて、悲しくなったこともある。

衣類、下着、雨具、薬品、歯ブラシ、洗剤、石鹸、シャンプー、カセットコンロ、おむつ、生理用品、ごみ袋、マスク、非常食、お菓子、などなど。
フリーマーケットのように並べて「ひとり一品」ということにして、自由に持っていけるようになっていた。

はじめは、限りある物資である、みんなで分けて、大事に使っていたそうである。特に、被災直後の水は、まさしく「いのちの水」だった。
しかし、時間がたって生活も少しは安定し、物資が次から次へと入ってくるようになると、みんなの中に「もらって当たり前」という感覚がでてきたという。
そういう感覚は、実際にテント村に住む人よりも、外から来る人に多かった感じがした。

「あそこへ行くと何があって、こっちでは何がもらえる」
と言って、各避難所を巡り歩く人がいた。
物資配布所まで、自動車で乗り付け(しかも高級車)、助手席まで荷物でいっぱいに埋めて走り去る人。
一緒に子供を連れてきて、その子のポケットに、ありったけのモノを詰め込む人。
「もらわな、損」という感覚で、人間性を疑いたくなるような人もいた。

村の住人達が、あまり欲張らなかったのは、自分がそこに住んでいて、いつでも他人の目にさらされているということがあったのだろう。
それに、避難所の自分のスペースには、たくさんのモノがあっても置ききれない、ということもあった。
ある住人は、
「わたしも、もし家が残っていたら、あんな風に持っていくと思う。ああいう人たちだって、震災さえなければ、いい人で通ってたはずなのにねえ」と言った。
みな、等しく「被災者」である。
ある日、おっちゃんがシャツを持ってきて言う、
「これな、さっきここでもろたんやけど、小さくて着られへん。替えてくれへん?」
普段から、ボランティアのことを「係員」と呼ぶおっちゃんだった。
これに、村の人がカチンときた。
大きいサイズのシャツは、いつも数が足りない。だから、みんな我慢して小さいのを着ていたのだ。
「おい、おっちゃん、そんなん大きいのん欲しいんやったら、店で買うたらどうや」
「なんやと?」
「あちこち、店だって開けて営業してるんや。梅田(大阪のこと) まで行けば、なんでもあるやんか」
「わし、被災者やぞ!」
「わしらかて、そうや!ここにいるもん、全員そうや!」
そんな感じで、ケンカになってしまった。

3月も後半には、近くの店も営業を始めている。プレハブの仮店舗をたてていたところもあったし、4月にはいると、サティも営業を再開していた。
そんな時期になっても、「タダだから」と、何度も来ては物資を調達していく人が多かった。こういう人たちは決まっていたので、 顔もおぼえられていた。

自分が「もらって当たり前」という考え方に慣れてしまった、と感じて、一切の物資をもらいに来なくなった人もいた。
「わしはもう、何ももらわん。自分のことは、自分でやるわい。せやないと、いつまでたっても被災者のままやんか。いうたらな、『心の被災者』 や」

ハンデを負った人には、無条件で助けの手が差し伸べられなくてはならない。そんな風に考えていた僕は、この言葉を聞いてはっとした。

自分で立ち上がれるまで――そこまで世話をするのが援助であり、それ以上は本人の力でやっていかなければならない。

被災地では、誰が立ち上がれずにいるのか、誰が甘ったれているのか、その区別は実に混沌としていた。
本当に必要だった人のところに、援助は行き届いていただろうか――そう考えると、自分は、大事なことは何ひとつしてなかったように思える。

「もらって当たり前」「もらわな、損」という感覚は、とても怖いものだ。
今までは店で買っていたものが、いつでもタダで手に入る。なぜなら、自分はかわいそうな人間だからだ――。
やはりそれは「乞食根性」だろう。とてもあさましく、救いようがない。

被災した人は、絶対的なハンデを負ってしまった。だからそれを埋めるべく、最大限の援助をすべきである――そう考えていたが、それは一時の感情の昂ぶりでしかなかったのでは、と思う。

別に、援助の対象が神戸である必要もない。
助けを 必要とする人々はどこにでも、自分の身近にたくさんいるし、何より、自分が今まで見向きもしなかった場所で、どれだけいるだろうか。
北海道の地震や、雲仙普賢岳の被害に対して、僕は知ろうともしなかった。
金も送ってない。
世界中に貧困にあえいでいる人がいることも、知っている、慣れている。
障害を持った人が、町にいる。「邪魔だな」とさえ思う。

結局、僕はマスコミに踊らされているだけなのだろう。
いってみれば、今回の大地震で被災した人たちは、「有名人」なのである。だから、助けに手を差し伸べる人も多い。
「神戸」という言葉が、踏絵のように扱われ、ボランティアは殉教者といった風潮であった。

純粋な気持ちばかりだったが、いやらしい偽善もあった。
それはそれでよい。その「行動」が、多くの人の助けになったからだ。
問題なのは、相変わらず、無名の人々には、手が届かないということだ。そして、声なき人々は、いつもどこかで損をしている。

「助けてくれ」と、声を出せる人は、それだけで救われる。
だからこそ、少しでも声なき人々に心を砕くことが大切なのだ。

 

ある日のこと、8枚ぐらいのゴミ袋を持参して、テント村にやってきたオバサンとその娘。
大きなゴミ袋に救援物資を詰め込むだけ詰め込んでいる。
全部の袋に詰め終えると、
「ビニール袋ないですか?」
と催促をするので、業務用のゴミ袋をあげた。その袋に、さらに物資を詰め込む親子。
「避難所めぐり」の人として、近所では結構有名な人なのだ。
そのまま自転車にゴミ袋を積み上げ、自分たちは降りて押しながら、帰って行った。
「あの人、どこから来はるんやろか?」
住民が疑問をもった。仕事も落ち着いた時期だった。ちょっと気分転換も兼ねて、2人を尾行してみた。
あたりは家も崩れ、ホコリまみれの街並みだ。 でも春の風が心地よかった。
彼女たちは隣の区まで歩き 、さらに15分ほども歩いた。途中、解体用のショベルカーに道を阻まれながらも、家にたどり着いた。表札を見ると「Y」とある。
鉄筋の3階建て、1階は駐車場という、立派な御宅だった。
家屋の倒壊率が高かったこの地区にあっても、壁に少しヒビがはいった程度で済んでいる。周囲にあった家のほとんどは全壊しており、さら地になったところにはテントがはってあったり、仮設住宅が建っていた。
Yさんの家は、荒野にそびえたつバベルの塔のようであった。
その家の中へ、Yさんは働きアリのように、せっせと荷物を運び入れて行った。その甲斐甲斐しさに、僕は思わず、「手伝いまひょか?」と声をかけそうになった。
Yさんは連日テント村その他避難所に通いつめ、かなりの蓄えをしたことだろう。
周囲に住む、家を失くした人に、それら物資を配ってあげたという話は、終に聞かなかった。

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