津知町(つじちょう)は芦屋市の西端、神戸市の東灘区との境にあります。大阪から国道2号線を西のほうに尼崎、西宮と走り、その次が芦屋、そして神戸となります。古い街並みで、道をあらわす「辻」が「津知」に変化したというのが、町名の由来だそうです。
昔、東灘区と芦屋のどちらかに属させるかという話もあったそうです。ですから、津知町と東灘区の境界線はかなり曖昧で、神戸市なのに「芦屋」と冠するマンションもあったりします。
このような辺境にある町だからかも知れませんが、いわゆる「芦屋」という高級なイメージから、ちょっとずれる感じの場所です。職人さんや自営業のおっちゃんが多く住んでいるようです。そのためか、周りの人たちからは「津知村」と呼ばれることもあったそうです。
この「ムラ」という言葉は、阪神間にあっては、きわめて差別的な意味合いを含んでいます。詳しくはあまりにも根が深いテーマですので割愛しますが、低所得層の集まりをさす言葉として理解してください。
芦屋川よりも西にある、いわゆる「川西5町」と、東灘区の一部とあわせて、このあたりの街並みは路地が狭く、木造の古い住宅が並んでいて、土地の大部分は地主の所有で、それを賃借する住民が多かったわけです。

震災の当日、住民たちは眠りの中にあったところを、ものすごいショックと力に襲われました。家具は倒れ、天井は落ち、壁は崩れ、その下敷きになってしまいました。がれきに埋まったまま助けを求めて掘り出された人もいましたが、つぶされて死んでしまった人もいました。津知町では、実に20人に1人の割合で死者がでています。また、その時の怪我、その後遺症に悩む人もたくさんいました。
道は、くずれた家や塀で塞がれていて、瓦礫とホコリに覆われています。電柱は、真ん中からポッキリと折れていたり、傾いていたり、アスファルトの道路はゆがみ、デコボコに波打っています。すべての建物が傾いて見えて、街並み全体が、自分に向かってくずれてきそうな、そんなプレッシャーを歩く人に感じさせます。
「震災」というと、すぐに浮かぶイメージは、火事で焼けた長田町の風景でしょう。テレビでは朝から晩まで流していた、あの画像です。地震の後、追い討ちをかけるようにして火に飲み込まれ、焼け野原になってしまった町で、呆然と佇む人々――それは、マスコミの欲しかった絵だったろうし、人々の同情が集まるイメージでした。
津知町では、たいした火災も起きなかったので(事前に消し止めたそうです)、一見したところの被害イメージは「地味」です。ですから、マスコミの興味を引くことも少なかったようです。ただ、一階の無くなった家というのは、それ自体が殺人凶器です。その下で、何人もの命が失われたということを示しています。イメージだけで、被害は測れないということです。
地味な被害――その中には、ものすごい悲しみ、絶望と一緒になって、人が生きてきた証、よく生きようとした努力とか、それら全部を奪った状況なんかが、ゴチャゴチャの瓦礫になって詰まっているのだ――そんな風に考えました。

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