テント村は公的な場所、私的な場所と、区別がはっきりしていた。誰も意識したわけでなく、気が付いたらそうなっていたという。

公的な場所としては、トイレや風呂場、洗濯機など皆で利用できるもの、救援物資を置いてある倉庫用テント、工具置き場、炊き出し用の台所、そして、人が集まって話のできる、ドラム缶周囲の広場、というところである。
炊き出し用の場所は、「さくら食堂」と名づけられていた。きっちりとかまどが組まれ、最初のうちは火を使うのはここだけと、安全的にも配慮されていた。

私的な場とは、いうまでもなく、避難者たちの「家」であるテントのことだ。公園の中央にかたまって、約25世帯が生活していた。
よく学校の運動会などで見かける、屋根だけのテントに、ブルーシートを巻きつけて作ってある。
このテントは、ひとつ数十万円もするものだが、被災当時の何もないこの公園に、他県の町内会から寄付で、トラックで運んできてくれたという。
これによって雨風を防ぐことができ、さらにブルーシートで四方を守るようにする。
それでも、最初のうちは湿った地面にそのまま毛布を敷いていたため、毛布も水を吸ってしまった。この頃、インフルエンザが流行した。かの(後にオウム事件で有名になる)江川紹子さんも、この悪性インフルエンザで寝込んでしまった。
そこで、地面にブロックを置いて、その上にベニヤ板を張り渡して、床をあげることにした。
ここの住人には大工さん、防水屋、解体屋までいたので、そういう仕事は速かった。最終的に壁の部分にもダンボールを利用して、少しでも暖かい「家」を完成させた。
さまざまな努力と工夫で、テント生活は改善されていったし、日々届けられる救援物資で、物質的にも豊かになっていったのだが、精神的な部分で、住民が声をそろえて「よかった」という施設がある。

ドラム缶、である。

住民の朝一番の仕事は、ドラム缶の火をおこすことだった。そして、夜の12時頃に消す。
被災当初は、24時間ずっとつけっ放しで、誰かが寝ずの番をしていた。そうやって、最初に使っていたドラム缶はすぐにつぶれてしまった。
ドラム缶の火の回りは暖かい。それだけでなく、人が集まる。
これが何よりの励みになる。
同じ火に当たりながら酒を飲み、話をする。その話題は明るいものは少ない。死んだ人のこと、怪我のこと、仕事のこと、そして、いつになれば「家」に住めるのか・・・。
それでも、皆で談笑し、一日の労働で疲れた体をほぐすことは、大きな心の安らぎとなっていた。
ひとりじゃない。そういうことなのだ。

夜になると、街の見廻りにでる自警団の男たちが、ぞろぞろと集まってくる。
寒風の中、殺伐とした町並みへ出かけなければならない。
「あのドラム缶のまわりでな、なんや、つまらん話ばっかりしとったなあ。せやけど、ああしてアホなこと言って、笑ったりしとったから、なんとかやってけたんやろな。せやなかったら、精神的にまいっとったと思う」

昼間のうちに、火を燃やすための木を集めておく。これを僕らは「しばかり」と呼んでいた。
木というのは、倒壊した家の柱などの「廃材」である。
ねこ(一輪車のこと)を押して町内を歩き回り、使えそうな木材を集めるのである。
「ワシんとこの家の木が、一番よう燃えるやろ!」
「あそこん家の木は、火のつきが悪いんや。しわいからのう」
軽口を叩きながら、町中の木を集めて、公園に積み上げていく。
拾ってきた木は、電ノコで適当な大きさに切ったり、ナタや斧を使って割る。
重労働で、怪我する人間も多かった。

先ほど少し触れたが、夜の9時を過ぎると、ドラム缶のまわりに男たちが集まってくる。10時と11時半の2回、町内のパトロールをするためだ。20歳から50歳。テント村で結成された自警団である。
被災地の夜は暗い。街灯もほとんどなく、廃墟となっている。
そこに置いてある荷物を持っていく火事場泥棒もいたし、若い女の子も危険だ。
あるコンビニを経営していた人は、自宅から避難所へ行ってる夜中に、鍵を壊されて侵入された。
ちょうど電気が通っていたらしく、防犯カメラには、次々とモノを持っていく人たちの様子が映っていたという。
「近所のな、人たちやで。あんな上品な、ええとこの人が…みたいな人も、泥棒やった。よってたかってや。人間てのは、怖ーいの」
その人は、早々に避難所をでて、自宅を修理して住み始めた。ビデオは公開するつもりはないという。
被災当時の数日間は、被災者同士が寄り添い、助け合い、非常に近い関係になる。だから、泥棒も暴行もない。だが、少しでも余裕ができ、お互いの距離が離れると、このような略奪行為も多く起こる。
なにしろ、治安が悪い。
こういった自警団は、津知町に限らず、被災地のあちこちで結成されていた。
ある地域の自警団はものすごく過激で、夜中に怪しい行動をとっている人を見つけると、裸にひんむいてボコボコにして逆さ吊りにしてしまうという噂だった。たぶん噂だが。
こういう「火事場泥棒」に向けられる被災者のにくしみは、半端ではない。
実際に被災し、自分の生活を立て直そうと必死になっている人々にとって、その弱みに付け込み、安全を脅かし、財産を奪おうとする人間が、憎悪の対象になるのは、当然のことだ。
津知町の自警団結成の動きは早かったという。普段からの近所づきあいがさかんで、顔見知りが多かったことがその理由である。高級住宅街と言われている芦屋の中でも、少し異質な下町の風情がある地域で、済んでいる人たちが、気軽に声をかけあえる、という環境だったという。

こういった団結力は、他の地域、とりわけ都会に住む人々が参考にすべき点でもあろう。
災害は、いつ起こるか知れない。それを予見するのは不可能だ。であるならば、起きてしまってから、周りの人々と協力して動けるように、普段から交流を深めておくのも、生きる知恵のひとつだと思う。
ただし、僕個人はそういうのは苦手である。

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