その前日は、朝の4時くらいまで、やっつけておきたい仕事のために起きていた。
震災の1時間前まで、ということになる。
その日、10時に目が覚めたが、眠いので、また寝た。
そして昼にまた起きた。テレビを見ると、異様に静かな映像が流れていた。
「神戸で地震」現場の状況を伝えるアナウンスがされていた。
マスコミも、この事態がどれほどのものなのか、把握できないでいた。ただヘリを飛ばしたり、派手な映像を探し回っていただけだ。
その日の僕の予定は、昼過ぎに歯医者さんへ行って、夕方から家庭教師のバイトがあった。
バイト先のテレビで、被害がますます拡大している、というより、思ったよりもずっと大きいものである、と知る。
こうして1日目が終わる。
次の日の新聞から、一面の見出しは「死者何人」というもので、その数が日を追うごとに増えていく。実感の伴わない数字だった。
テレビでは倒れた建物と高速道路、そして長田区の火事、「まるで戦火のようです」と繰り返す映像が、日々流れた。
落ち着かない日々が続いた。
神戸にいる知人には、いつまでたっても電話がつながらなかった。
テレビでは惨状を垂れ流し続けていた。皮肉にもありがたかったことは、死者の名前がテロップで流れていたことだ。
知人と同じ名前を発見すると、ドキリとした。
1週間たって、ようやく電話がつながった。
「事務所はめちゃめちゃになったけど、家は壊れていない。家族も無事です」
その手紙が来たのは、電話がつながってから、すぐのことだった。

その知人のほかに、僕は神戸には何のつながりもない。
義援金としていくらか寄付して、それで僕にとっての震災は終わりのはずだった。
生活は忙しかった。
学習塾で教えながら、就職の面接に行き、歯医者さんに行って、夜は家庭教師をする。
そうこうしている内に、内定がひとつ決まる。
さらに学習塾から、そのまま就職しないか、というお話もいただいた。
――時間が、さっさと過ぎた

震災から1か月の間、現地の人たちは呆然と、何がなんだかわからないまま、時を過ごしたという。
今まで自分たちが築き、守ってきた生活のすべてが、一瞬にひっくりかえってしまった。余震が続く中で、なにも考えることができず、目の前に山積みにされていく現実の問題に、ただうろたえるばかりだったという。
東京にいる僕もまた、目の前の現実を片付けていくだけだった。
高校受験を控えた生徒たちを放っておくわけにはいかない。
現地の人々に対して心は痛んだが、どうするわけにもいかない。――これは、当時みんなが感じていたことだろう。
その間にも、報道は死人の数をアンケート結果のようにカウントし、毎日毎日「悲惨な映像」を流し続ける。
1か月ほどもすると、ようやくテレビでもお笑い番組をやるようになった。
ほっとした。これで本当に、震災は終わりだ。

しかし、そうではない。被災地では失ったものを取り戻すのに、どれくらいの時間がかかるか知れなかったし、大体、もう戻ってこないものも、たくさんあった。現地では震災が、いまだリアルなものとして続いている。
それでも、僕にとっては東京での生活がリアルなのだ。いろいろな人たちとの、持ちつ持たれつ作り上げていく生活。就職にもメドがついていたし、フラフラした中でも、今後ひとりで生きていける自信もついていた。
少しの同情と、義援金――それだけでいいではないか。
そう思いつつも、どこか釈然としないままに、日々を送った。
繰り返しになるが、当時は多くの人が、こういう思いであったろう。

「自分は、現場を見なくてはならない」
そう思った。思ったら、居ても立ってもいられなくなって、気もそぞろになった。
自分にとっての、正しい行動をするのだ。
あの頃、世の中はみんな、善意のカタマリのようになっていて、大人から子供まで、被災地に心を砕き、自分もなにかしてあげたいと思っていた。
ボランティアという形で被災地にはいろう、と思ったのは、その時流に乗ったからだった。
実際として、仕事の責任も、金も家族も持ってない人間には、ちょうどよい「お仕事」になる。
とにかく現地に行って、そこのリアルを、自分の目で見れさえすれば、それでよかった。
よく言えば使命感、悪く言えば野次馬根性だ。

「目の不自由な人がそばにいれば、自分が読んでいる新聞を声を出して読みあげるだけでいい。それも自分が読みたい時間にで充分。いや、何もしなくても、そこに何かで苦しんでいる人がいるということを知っているだけでいいのです。」(『マザー・テレサ あふれる愛』沖守弘)
ボランティアとは、こういうことだ。だから、別に現地に行く必要もないし、自分ができることだけ、他人に心を砕くことだで、すればいい。
現地の迷惑になるだけではないか――。
それでもいい。とにかく、僕は行きたいのだ。理屈を無視して、あくがれる気持ちはどうしようもなかった。
しかし、自分の生活はどうする?
今の自分のリアルをとるのか、現地のリアルをとるのか、どちらかを捨てることになる。
僕は、どちらも捨てた。
猫のように、自由にやるのだ。自分のために、自分勝手にやる。
今までに集めてきて背負い込んだ、いろんな重さを捨てて、猫になるのだ。

それまでの自分の生活を捨てる――言うのはカッコいいが、それは本当に大変なことだった。
そして、カッコ悪いくらい、あやまってばっかりの日々が始まった。
内定の決まっていた会社の人事さんにあやまった。
3月まではできると思っていた、学習塾の塾長にあやまった。
とりあえず、担当してたガキどもはみんな高校に合格していたが、来年受験生になる生徒たちにあやまった。
家庭教師も打ち切り。おかあさん、子供ともにあやまった。かなり出来の悪い子供だったが、やさしい子だった。
3月には旅行に行こう、と女の子と約束していたが、中止になった。しかも、そのためのお金は、全部寄付してしまった。とにかくあやまった。
アパートをひきはらうときに、大家さんに理由を説明し、あやまった。何か月分かの家賃をまけてもらった。

あちこちにさんざんあやまって、社会とは無関係の人間ができあがった。
リュックサックと、大きなバッグ、それだけが持ち物で、あとは現金、30万円。
なんだ結局、そんだけのもんなのか、と思った。

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